犯罪行動生態学的視点から見ての結論を先に述べると6日午後8時ごろ、東京都世田谷区の小田急小田原線祖師ケ谷大蔵―成城学園前駅間を走行中の電車内で発生した複数の被害者を犠牲にした凶悪な連続傷害事件は、事件現場選択行動の組み立てから2008年6月発生の「秋葉原通り魔事件」と同じく「自殺=自死」としての通り魔連続傷害事件です。
理由は以下の通りです。

彼が掲げた被害者選択の心理的理由(「幸せな女性をみると殺したい」「(最初の被害女性が)勝ち組の典型に見えた」)からすると格差社会への復讐心が犯行動機の基底(これ以外に加えて様々なストレス、社会的劣等感(落ちこぼれ感)、金銭的ゆきづまり、将来への絶望感等)にあることがうかがえます。

また彼が供述したと伝えられる事件現場選択理由(「電車だと大量に殺せる」)から考え彼は犯罪者として振る舞うのに十分な正常な常識的能力(知恵・知識・学習能力)を有していることが判ります。しかし犯罪者としての習熟度は低いレベルにあります。計画性が弱い。

さらに注目されるのは(未だ供述していないかも知れませんが)、彼がこの凶行を計画する初期段階のこととして(その初期時点で牛刀を用意している。2000年に起こった西鉄バスジャック事件を思い起こす。その時の犯人(当時17歳少年)も長大な牛刀を振り回し地獄図を描き出した。今回の被疑者はその事件時16歳!)「いかにどのような被害者をやる」かは述べても「いかに逃げるか」に言及(計画)していないことです。その点で前述の「秋葉原通り魔事件」の犯人と同じ、意図的でなくそう表明もされていないが結果として「自殺(自死)」としての犯行・犯罪です。

自殺・自死としての自殺・自死には二種在ります。社会的死と生理的死の二種です。彼が狙っていたのは両方でしょうが、これまでの彼の経歴と生活から見て、特に前者の社会的死を望んでの自殺的行動と考えられます。おそらく「世の中にることがいやになた」だから「社会からの完全撤退(強制的退去)」を狙った凶行だった。暴発、自暴自棄とも表現できましょう。としたら今回の事件により長期の刑務所生活を送ることになっても、彼にとっては「望むところ」となり刑罰にはなりません。

彼が望む「自殺としての凶行」の判断理由として以下の様に考えます。

一般的に犯罪者は、犯罪の種類(罪種)にかかわらず基本的に➀被害者に近づきやすい、②犯行現場から逃げやすい、③「勘あるいは感(これは「やれる」、「良い獲物だ」、「今だ!」など)の3つの判断基準で動きます(新潮新書、清永奈穂等)。

繰り返し100人以上の元犯罪者たちに聞きました。この3つの内、あなたはどれを一番重視

どの犯罪者も犯行を計画(企図)し考えを巡らす最後の最後に重視するのは②のいかに「上手く逃げるか」の「逃げることの企画=計画)だと結論付けました。例えば犯した殺人の死体を事前にいかに「隠す」かを考えるのも「上手く逃げる」ことの一つです。

理由は上手く被害者を襲撃できても「捕まってしまって」はどうにもならないからです。多くの犯罪者にとって「いかにヤルか」よりも最期は「いかに逃げるか」です。それが通常の犯罪者の判断です。

しかし逃げることを考えない犯罪者行動は、元犯罪者たちによれば、ただ「やることだけ(捕まっても、どうなっても良い)」が目的化し「後先無しの自暴自棄行動(やりっぱなし行動)」と判断されます。特に殺人などの凶悪犯の場合、もし捕まったらどうなるか(最悪の場合、死刑)を考えない行為は、むしろその行為を行うことにより「自死」を求めて(死んでもどうでもよいや!)の破滅的行為となります。

確かに「やりっぱなしの行動」をとる犯罪者もいます。しかしそれは全くの素人犯罪者(多くは少年)か考え無しに一瞬の憤激に駆られた犯罪者です。これはすぐ捕まります。また反社会的勢力のメンバーが行う鉄砲玉殺人(チョイと行ってパンと弾く行為)も「やりっぱなし」に見えます。しかしその場合には、彼の後ろに「やりっぱなし」を処理する専門手段によるバックがあります。

少なくとも事前に殺人に至るかも知れない重大な犯罪行動を企画するような犯罪者(今回の被疑者は冒頭に述べたように正常な能力・精神状態を持つと想定される)には「やりっぱなし」はありません。

例えばこうした自殺としての凶悪事件が秋葉原通り魔事件でした。また2016年の相模原障害者施設殺傷事件にも同種の臭いを嗅ぎます。しかしこの相模原事件の場合、犯人は「被害者は殺されてもしようがない、自分の行為は社会的正義だ」という「中和の理論」を採用し自己の行い(凶行)を正当化しています。

今回の事件も上記の相模原障害者施設殺傷事件と同様に考えられますが、異なるのは最初の被害者は「(たまたま)勝ち組の典型に見えた」だけで「まあ誰でも良いけど、ともかく目に入った「うざっぱい」「抵抗力の弱い」「やりやすい女性だったから」などが本音ではないかと判断します。最終的には誰でも良い目の前にいる人を「連続して刺す・切る」こと、それも派手に連続して。最終的にはさす・切ること自体が目的化し、流れ作業的に人を選ばず刺し切りまわるという「通り魔連続傷害事件」となったと考えられます。

それでも今回事件の被疑者は、凶行後「電車内」から飛び降り逃げまわっています。この「逃げる行為」は、凶行後(あるいは凶行中)に「たまたまハット逃げなきゃと気がついた」ことでしかないと判断されます。理由は「逃げること」の事前計画性が全然ない(現在の時点でその情報が私たちに漏れ出ていないのかも知れない)。だから彼は犯行の僅か数時間後の逮捕時に言ってます「逃げまわることに疲れた」と。凶行の悪質性の割には「だらしがない」。「やった行為」の重さ(それが独りの人間の大切な生命・人生を、責任も取る考えも無しに暴力で切断してしまうかもしれない)が判って無い。彼は知能・知力はあって「大人」(責任を自覚しそう行動する人間)になりきっていない。だからこうした事件を犯すことが出来たとも言えましょう。

今私たちは東京オリンピックの騒ぎの中で、そういった人間(自己中人間)をいかに多く眼にするか。今回事件の被疑者は、決して今日の社会から度はずれた人間ではない。逆に言えば彼は、今日の社会状況が生み出した極めて平均的などこにでもいる「時代が生んだ今様の大人もどき人間」と思えてなりません。

筆者は、秋葉原事件と同様、「自死」を狙った連続通り魔事件が本事件の本質であると結論付けます。

それではこうした事件をいかに防ぐか、について次回に述べましょう。答えはないけどアルです。

(文責 清永奈穂      2021・08・08)