インドに行かれたことあります?インドの方と長く生活したことあります?
広大な大地と膨大な人口を抱えたインド。逃げても逃げても逃げ切れない、あらゆる行動や生活・文化そして生まれた瞬間から一人の生きた人間を固定してやまない頚木社会がそこにあります。この頚木が「カースト」であり、変わらぬ「インド」です。今を生きるインドの方は、その頚木の存在を知り(彼らにとって「頚木」であり、「いじめ」とは表現しない)、どうにかしようと大変な努力をしています。しかし歴史という時間が、目の前の社会を縛り続けています。場合によっては、個人の生理的次元に至るまでに。
どなたかインドでどのくらい「いじめ」が発生しているかご存じですか?私(賢二)がロンドンでインドの方に聞いたときには「えー、と分からない」「あまり無いんではない?」「Bullingは学校でかなりあるみたい」でした。
「いじめ」は当初3層から構成されると表現されました(「いじめ~教室の病~」、森田・清永。その後森田が4層に変更。この「いじめ~教室の病~」は、清永の「理論的にも事実としても一部に間違いがある」という森田への強い申し出により、協議の上、その後絶版となりました。実は森田も私も「いじめ」の真核の部分をとらえ損ない、表現しそこなっておりました。そのことがその後の「いじめ問題」の迷走に繋がったのです。申しわけありません。清永は「いじめの深層を科学する(ミネルヴァ書房)」を著し修正しました。そのことが、その後の文科省の「重大いじめ」というカテゴリー分けにつながったのではと思います。どなたか検証してください。)。そこ(「いじめ~教室の病~」)でとらえられた「いじめ」は「被害児と加害児の相互作用」であり、かつ集団内の「層」であり、層間移動があると森田・清永は描きました。固定していません。しかしその後の研究で実際の「いじめの世界」は、純粋に「層」だけから構成されているとは言えず、以下に述べるように流動性と併走して固定した(しそうな)部分もあることが分かってきました(岩波の現代教育シリーズあるいは先述の「いじめの深層を科学する」清永)。
広がりと深さを持ちながら流動性と固定性が混在しているのが今の「いじめ世界」であり今日の「いじめの構造」の実相です。「いじめ」という視点から現実の学校や教室の中を眼を凝らして実際に自分の眼でよーく覗いてごらんなさい(ぜひ「いじめの深層を科学する」をご一読いただければ幸いです)。
ですから、子どもたちは「いじめ」が怖いのです。自分も固定部分のそこに落ちる(落とされる)のではないか、一度落ちたらそこからなかなか這い出られないと(「落ちる」という日本的コンセプトの存在がインドの「カースト社会」との大きな違いの一つです)。子どもだけではありません、大人の「いじめ社会」にも共通します。
即ちいじめの世界は、単純に流動(非固定)していません。流動する層と、固定したあるいは固定しつつある「層」(「級」・クラスと読んでも良いかも知れません)が深部でサンドイッチ状に挟まっているのです(先掲「いじめの深層を科学する」)。そしてこの「固定化しつつある層」から、「いじめ悲劇(深層の病理)」の主人公が生み出されるのです。この「いじめ悲劇誕生」のメカニズムを知ったとき、安易に「スクールカースト」などマスコミ受けする用語と並べて「いじめ」を使えなくなります。日本の学校の子どもたちの世界は、それほど固定した卑賤民的「カースト化」していません。逆にそれほど流動的な「非カースト的」(カースト的でありカースト社会ではない)な社会でもありません。でもどこかに人間としての「脱出ルート」を用意しています。そうでなければ膨大な悲劇が生み出されているでしょう。
子どもの学校を「カースト社会」と一括りにし、そこから「いじめ」が生まれると単純に表現したとき、30年も経とうという「いじめ学(というのがあれば)」の進化を後もどりさせることになるでしょう。
スクールカーストから産み出されるという「いじめ世界」のマスコミ向け表現。浅薄な「いじめ」理解はやめましょうよ。そう表現することで「いじめの実相」は余計分からなくなります。そう表現する方に聞きたい、「いじめ」ってなーに?どう定義する?
「いじめ」って何だろう? 被害者が「いじめられた」と感じたとき、それが「いじめ」? では「感じ」なければ「いじめ」でない?いじめっ子が「いじめてやろう」と思って「ある行動」を意図的にやっても、いじめられっ子が「いじめられてない」と思えば「いじめにならないの?「いじめ」を巡る被害者と加害者間(とされた)で裁判が絶えないのはなぜだろう?なぜ「いじめ認知数」(文科省統計)は時により大きくぶれるのだろう?本当に「いじめ」を「人間世界」から全く無くすことはできるのだろうか?「いじめ」ってそんな単純なものだろうか?
みなさんに質問を一つ出しておきましょう。「いじめ」を無くす至極簡単なしかし決定的対応策があります。何でしょう。「いじめ(正確に言えば「いじめという言葉」)」を無くすには、これ以外ありません。答えは、冒頭の清永とインドの方との話しの中にあります。
「いじめ研究」は成されているようで本当のところ未だ十分に成されていません。特に「いじめの広がりと深さ」の視点から。というのか永遠に未完なのではないでしょうか。それが「いじめ研究」の宿命だと思います。
(文責 清永賢二 清永奈穂 2020・06・14)