今回のコロナウイルス禍が、私たちに「原因の理解」は必ずしも有効な「治療や防止策とは直結しない」と言うことを教えてくれました。これは「いじめ」も同じですが、虐待の原因が判っても虐待を防止することには直結しないことを指しています。確かに「虐待はなぜ生まれるか」の心理的説明・解釈は進んでいますが、それではその防止に成功を収めているか、そう言い切るには現実は厳しいのではないでしょうか。実際、今回のウイルス禍の下でいくつかの虐待例あるいは「虐待に落ちいるのではないか」という怯え例が報道されています。
ではすぐにでも虐待防止の手法はないのか。私は、皆さんに現在自宅待機中も進めている世田谷の「スクラム防犯」の冊子作りの過程で導き出した3つの提案をしたいと追います。
家庭内児童防止のための3つの提案
提案の第1:児童虐待は犯罪であることを覚悟せよ;
児童虐待防止法の改正でこのことは、しっかりと示されましたが、私の見るとこる、まだその意味の重さが国民全員に共有されていないのではないかと感じられてなりません。
「子どものしつけ」「親子の愛」という「きれいな言葉」に隠されて「ささやかであれば」あるいは「キツくなければ」「どうして言うことを聞かないときには、仕方が無い」とおこなっていませんか。
こうしたことは子どもという「一人の人間」への犯罪です。子どもは、確かに親子の絆で強く結ばれていますが、同時に独立した一個の人間でもあります。
提案の第2:心しておこう体罰は「パッチン」「コツン」から
「力の押しつけ=暴力」はエスカレートします。それが暴力です。最初は、軽く「いさめる」くらいの「パッチン」「コツン」。そのことをさらに強く注意するためには「パッチン」から「バッチン」そして「バチバチ」「ゴッツン」やがて「ゴン!ゴン!ゴン!」に変わります。どんなことがあっても最初の「パッチン」「コツン」はだめ。親業とは「我慢」の職業です。
貴重な経験があります。 1998年の夏、両親と3人で北アイルランドの友人(友人の父親はIRAの地位の相当なボスであったと私は睨んでいます。私たちを空港に迎えに来た近所に住むという3人の若者が、彼を普通の関係であれば「JOHN」だけであればよいのに、必ず「Mr JOHN」とMrをつけて呼んでいました)を訊ねた時の経験です。友人の車でロンドンデリーの街中を通行していたとき、両親が口喧嘩を始め、父親がホンの軽く(本当に「ペチ」まで行かない「ヘチ」位の)手を当てました。その小さな音に車を運転していた友人は素早く反応し、さっと振り返り「やめて」と言いました。その時「殴る」ということが、どんなに軽く愛情の籠もったものであっても、友人達の間では「非常に重い意味」(あのデリーで!)を持つと言うことを知りました。
提案第3:子どもとの会話は「背中」でしない
いじめられた子どもが一番つらいのは「誰からも相手にされない=無視されること」です。家庭内の無視、それも親愛と信頼のお母さんやおとうさんからの無視=冷えた視線は一生の絶望に続きます。
その始まりを無視された子どもたちに聞くと、多くの子どもが「背中の返事」から「始まった」と答えてくれました。つまり子どもたちに向き合っていないです。児童虐待の関係は、そこから始まるのではと私は思います。
実際には向き合っているかも知れません。しかし「心が向き合っていない」のです。そのことを子どもは敏感に察知しているのです。そして徐々に親子の心が切断されてゆき、力の強い者が弱い者へ強圧的視線を送るようになるのでは・・。
子どもとは「背中の会話はしない」の覚悟が虐待地獄からあなたを救います。
忙しく子どもと向き合うことができなくとも「向き合ったつもり」の暖かい声、それだけで子どもは救われます。
いかがでしょう。今あなたが親としてできることは、この3つです。試してみませんか。簡単でしょう~。このコロナウイルス禍は、この3つの提案(覚悟)を体得する良い機会だと思います。
(文責 清永奈穂 2020・04・28)