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犯罪や地震等の危機に強い子どもづくりが盛んに進められています。背後には、先回述べたように、現実に犯罪や地震等の危機が子どもたちに日常的に降りかかっているということ、加えて文部科学省(文科省)の方針として安全教育が園から高校までを通し必修化したという2点があげられます。園・学校で安全教育は行わねばならなのです。
しかし最近なされている取り組みの 多くを見ると、こうした安全教育が教育として備えて「おかねばならない基本的条件」がややもすると疎かに扱われているように思われてなりません。
「教育としての安全教育」が備えておかねばならない基本的条件とはどのようなものか。
以下の6点があげられます。
⓵安全教育は「教育」であり、「子どもを創る=育てる=培う」という視点を備えたものであらねばならないこと。単なる「逃げる術・克服する術」を体得させる技術指導ではありません。
②その指導は子どもの発達段階に沿ったものであること。子どもの年齢差、心身の発達や充実度の違い、さらに男女の性差等踏まえねばならない幾つものポイントがあります。
③その内容において体系的系統的に組み立てられたものであること。教える内容に踏まえておかねばならない「教えの順序」、「教育の過程」があります。
④危機という差し迫った現実問題についての教育であることから、その内容において実学的実践的なものであること。危機との遭遇場面において実際に役に立つものでなければなりません。
⑤そのためには、危機の実情・実態について実験や調査(犯罪者への面接調査を含む)しを行い、それらから得られた合理的科学的証拠=根拠(evidence)に裏付けられた指導を行わねばならないこと。子ども指導に際し、単なる「こうしなさい」という掛け声(標語)ではなく、説得力ある合理的根拠=データ」の存在が求められます。
⑥その指導は子どもの「体験中心」の指導内容・指導方法であること(注)。机に座って学べば済むものではなく、自分の体・動きを通して学ばねばなりません。
これら6点の基準の中で特に問題となるのは、⑤のevidence=根拠の問題です。最近根拠なしの「標語的語りかけ」が、あたかも実証的裏付けがあるかのような装いをして語られています。
その根拠は何かと問われると、「客観性のない個人的思い付きや経験」、あるいは「他の人のevidenceの表面的盗用(一部を切り取る、表現を変えるなど)」が多くあげられます。
例えば既に文科省の学術研究で詳細に行われた「ランドセル放棄実験」の一部を切り取り「ノーランドセル」と称しだり、警告の叫び声を発することを「口(くち)ブザー」と呼び変えて指導している例があげられます。
「ノーランドセル」指導では、加害者の「手前何メートルから何メートル走り切る」ことを想定して「ノーランドセル」(ランドセルを捨てて走れ)と指導しているのでしょうか。走り始め走り切る長さによっては、ランドセルを捨てて逃げることは、かえって危機をもたらしてしまいます(余分な動作が加わり、加害者に後ろから捕まってしまう)。さらに加えれば「その走り切るメートル」は科学的に「うなづける方法」で「うなづける対象」から得られた結果でしょうか。
また「口(くち)ブサー」は何処まで、どのような意味を込めた叫び声を正確に届けることを想定しての指導でしょうか。ただ「叫ぶ」だけでは「届けたい人」への危機の伝達は難しいこと(わたくしたちの実験では30メートル離れては意味を込めた叫び声は届かない)、場面によっては「ふざけている・遊んでいる」としか受け取られてしまいかねません。聴覚だけでなく、視覚的に身振り手振りをつけ危機を伝えることが必要となります。
こうした「標語主義的指導」では有効な指導がなされないだけでなく、実質効果のない=役に立たない指導として安全教育そのものが、ただ形だけのものとみなされようになり、やがて安全教育無用論(やっても効果ない)につながりかねません。
これら科学的根拠なしの「標語主義」の指導には、子どもの安全指導を行う者自ら、厳しい視線を送る必要があります。
注)なぜ体験を中心とせねばならないかは、以下の文献を参考。 1)脳の意識/機械の意識、渡辺正春峰、中公新書)2017 2)言語の本質、今井むつみ・秋田喜美、中公新書2023。
(文責 清永奈穂・清永賢二 2024年10月21日)