麦島博士(東大心理学博士)は、私が研究官時代を送った元警察庁科学警察研究所防犯少年部長(入所当時、環境研究室長)であった。こうした場所で個人的思いを述べるのは、適切でないかもしれないが、人生の終わりが見えてきた今、博士にはご迷惑かもしれないが一言お礼の言葉を捧げたく記している。

麦島博士は、飄々としながらも徹底して厳しかった。誤魔化しの無い「冷徹さ」であった。あの味のある冷徹さは、私の人生の中で、博士を含めもう御二方(瞬間的に出会った大学人と経済人)に感じる以外にいない。

例えば調査票の作成(質問文章、質問文の配列、質問の狙いと予想される効果等)、テーブル作成から統計的解析手法、調査報告書の書き方、広報の仕方、犯罪統計の読み方、警察庁や都道府県警察、法務省等とのやり取り、犯罪動向の長期予測、犯罪学の基礎知識等々。

博士は、これらに関して甘えや間違いは徹底して許さなかった。非情であった。特に何の素養もなく、大学でそれらしき学びをして来なかった私には厳しかった。博士の研究室を出た途端、作成した調査票を引き破るほどの屈辱を味あわされた。「愛ある厳しさ」等という甘ったれた次元の厳しさではなかった。しかしその徹底した厳しさは、私に取り「幸いな厳しさ」であり非情であった。私も密かに涙を出しても情は求めなかった。徹底した指導があったから、私は仕事に対し(仕事だけ、といってよいかも知れない)妥協の無い、逃げの無い、少しは内容ある歩みを進めることができた。

その厳しさは、博士自身にも向いていた。自分を語ることの少ない博士であり、何かにつけお酒を飲まれた(飲まされた)が、その時の会話は古今東西に及び、内容は物理学から落語の世界にまで及ぶものであった。基礎教養がちがった。そしてその会話の底には、博士自身は一言も口にすることはなかったが、私には「戦時体験」のあることが秘かに窺われた(博士は終戦時旧横須賀中学出身)。終戦の日には、必ず近くにあった「無名戦士の墓」に一人ででも参り頭を下げていた。私も下げる。

私が博士から学んだのは、その物事への「徹底した向き合い方」の姿勢であった。それと加えるなら「止まらぬ飲酒僻」であった。

麦島博士が研究所を去る前ごろ、私が主任研究官→環境研究室長→犯罪予防研究室長(この頃には、もうお辞めになって研究所にはいなかった)と短時間の間に急ぎ移る頃には、最初の頃と違って、当時私が住んでいた東大農学部前西片にある「フローラ」という5人入れば満杯になる小さなバーに夜間二人きりで良く誘われた。何もしゃべらなかった。空気は重かった。そこには、博士の東大時代の先輩・同輩・後輩(今ではお名前を聴いたら驚くような専門を異にする東大教授の方々)が1人2人とウイスキーの杯を傾けに来て、その方々に紹介してくださった。人生の「宝の時」であった。それは驚きであり慶びであった。忘れ難い夕暮れ。

博士には「感謝の言葉」以外に浮かばない。その方に研究所を去ってから何のお礼もしなかったし、出来なかった。奥様にも。心深く悔やまれる。最後に本当に有難うございます、そして今でも心秘かに尊敬いたしておりますと申し上げることでお許し願いたい。

今では考えられない、しかし得難い若き日の「学びの世界」であった。私には、それが人生初めての学問の世界であった。

(文責 清永賢二           2024年8月22日)