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いじめ研究

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少しの期間、いじめ問題をやり、幾つかの論考を書いてきた。前から、進められている「いじめ対策の持つ問題」を指摘したつもりだ。現在の滋賀県で起こっている「いじめ問題」は、「いじめ」として扱うには大きな違いがあると思われる。これからなぜ違うのかを書いてみたい。大きな作業になると思う。しかし書いておかねばならない。

書くテーマは「滋賀県いじめ事件うわさの空気」とでもなろうか。

その前にこれまで書いてきた事を、「いじめ」に対する清永の基本スタンスを表すつもりで全体一括して下記に著しておこう。

日本語で「いじめ」。オランダ語の「いじめ(Pest)」は、まさにあの黒死病と呼ばれたペストと同音意義語である。疫病としてのペストは、音もなく人々に忍び寄り、王も領民も富者も貧者もなく無差別に襲いかかり、激烈な症状、高い致死率で世界中の人々を恐怖へと走らせた。その恐怖と「あの人は患者ではないか」という相互不信が、中世社会崩壊の促進要因とさえなったと言われる。

いま多くの子どもたちは、音もなく忍び寄るいじめにおびえて立ちすくみ、救いを求める視線を周囲に投げる。かつてのペストがそうであったように、子ども世界を恐怖と相互不信が支配しようとしている。子どもたちだけではない。子どもが学ぶ教育の世界も、いじめという病いの重大な発生因として、その存在のありようが決定的に問われている。

いまの「いじめ」への対応方式である限り「いじめ」は無くならない。なぜか。多くの出版物でそのことを述べてきた。最近では2011年のミネルブア書房「犯罪からの子どもの安全を科学する」あるいはその後の同じミネルヴァ書房「いじめの深層を科学する」がそれだ。古くは岩波から出された現代教育講座の中の小論がそうだ。

いじめの調査を行って来た者として密やかにでも印象を述べるのは義務であろう。

それにしてもマスコミあるいは教育関係者はなぜ1950年代に起こった「滋賀県野洲の中学生首切り事件(警察的には初めての「いじめ殺人事」)を取り上げ無いのか。あの事件の中にこそ今の「いじめ問題」に通底する全ての構図が含まれてい。当時わたくし清永は警察庁科学警察研究所に在籍し、当時の滋賀県警本部長からの依頼で徹底して事件記録を読み(今もわたくしの書庫のどこかにあるはずだ)、その後現地に赴き原因分析した。しかしその時は、あれが「いじめ事件」とは分からなかった。なぜなら言葉「いじめ」がなかったからだ。つまり「いじめ事件」は言葉があって初めて存在するということがいえる。

またマスコミあるいは教育関係者は、滋賀・野洲事件と並んで有名な「中野富士見ヶ丘、葬式ごっこいじめ自殺事件」を再訴取りあげ、なぜきちんと分析しないのだろう(この事件発生当時わたくし清永はやはり科学警察研究所に在籍し、中曽根第一次臨時教育審議会事務局員として、富士見ヶ丘事件分析に従事した。この時の作業資料は書庫にある)。この作業なしにはこれからの「いじめ事件」への的確な対応もできないし、また「いじめ自殺・いじめ殺人」の再発を防ぎ得ないと思うのだが。

以下、多分に岩波の小論に似通ったものであるが、私の意見を述べる。意見を最終的に纏めたものが先に掲げたミネルブア書房「いじめの深層を科学する」である。

1 いじめの現代的諸相

子どもたちの間に深刻な病いが、国境を越えて流行している。

英語で「bullying(プリング)」。オランダ語で「Pest(ペスト)」。中国語で「欺負(チーフ)」。

(1)困難ないじめ認知

ある行為がいじめか否かの判定は、場所(社会)、時間(時代)、人間関係、行為の内容や程度等によって変化する。同じ「(ひそやかに)つねる」という行為でも、恋人たちの問ではしばしば愛の表現であり、子どもたちの学級ではいじめの一形態と判定されることがある。

多くの場合、いじめは、いじめっ子やいじめられっ子の告白によって初めて明示化されるものである。同じ行為であっても、子どもが「これは、いじめだ」と叫んだその時から、その行為は「いじめ」と呼ばれ、存在することになる。そう認知され、そう呼ばれれなけはめは「いじめ」にならないし、存在しないのである。

いじめは、いじ存在するのか。存在しない。いじめは存在しないのか。存在する。

つまり、「これこそがいじめだ」と言える絶対的で客観的な行為は存在しないのである。その一方で、どのような行為であっても「いじめ」と呼はれる可能性を持っている。

しかし逆に、このように考えてくると、いじめ問題の現象的解決はある意味では簡単なことでもある。「いじめ」という言葉を子どもたちの問から追放すれは、「いじめ」を消し去ることになるからである。とじ行為であっても、子どもが「これは、いじめだ」と叫んだその時から、その行為は「いじめ」と呼ばれ、存在することになる。そう認知され、そう呼ばれなけれは、いじめは「いじめ」にならないし、存在しないのである。

いじめは存在するのか。存在しない。いじめは存在しないのか。存在する。

つまり、「これこそがいじめだ」と言える絶対的で客観的な行為は存在しないのである。その一方で、どのような行為であっても「いじめ」と呼ばれる可能性を持っている。

しかし逆に、このように考えてくると、いじめ問題の現象的解決はある意味では簡単なことでもある。

「いじめ」という言葉を子どもたちの間から追放すれは、「いじめ」を消し去ることになるからである。とは言っても、いくら「いじめ」という言葉を追放したとしても、それは言葉を追放しただけであって、かつて「いじめ」と認知され、そう呼はれていた行為や現象そのものは存在し続けているはずである。

(2)いじめ=タマネギ論

多くのいじめ行為は、それがいじめと認定されたとたんに別種の行為へと変異し、相も変わらずいじめそのものは続いていく。プロレスごっこから菌ごっこへ、またいじめから校内暴力へ、というようにである。

それでなくとも、実際に個々の行為を前にして、それがいじめか否かを判定することは非常に困難である。

大切なことは、個々の行為にいじめか否かのラベルを貼ることよりも、どのような行為パターンが「いじめ」と呼ばれ、問題視されているか、ということである。

少なくとも、以下の五つの基本的行為パターンをあげることができる。

①基本的人権の侵害行為。

②既存の刑法等の法体系やその他の統制力で処理することの困難な境界的行為。

⑨子どもたちの荒れた心、利害に根差す行為。

④子どもたちの人間関係の不全性が起因となって生じる行為。

⑤本人の属性であれ、状況的にであれ、弱い立場に立たされる老を侵害対象とする行為。

現実に生じている子どもたちの間のいじめは、上記の五つの行為が個別にあるいは複合しあった結果に他ならない。この五つのパターンを基にして、もう少し、イメージ的にいじめを表現してみると、たとえば、いじめは子ども世界における「タマネギ現象」としてイメージできる。タマネギは、多くの皮から構成されている。その皮一枚一枚はクマネギとはいわないが、多くの皮が集まって玉状を形成した時、その塊りはタマネギと呼ばれる。

私たちは、「いじめというタマネギ」が真実存在するものという前提でいじめに向かう。しかし、上記①②③④⑤という五枚の皮から成り立っているいじめタマネギの皮をどこまで剥いて行っても「いじめタマネギ」という真核部分は得られないだろう。五枚の皮を寄せ集めた時、はじめて「いじめタマネギ」が目の前に現実の物となって現われ出る。

「いじめタマネギ」は存在しない、しかし、存在する。私たちの前にいじめはこれだという行為は存在しない。しかし、いじめに脅える子どもは事実存在する。こうしたギャップがあるからこそ、いじめは理解しがたく、認知もしがたく、解決もむずかしいのである。

ここで私たちは、ある重要なことに気づく。いじめをこのように五枚の皮からなるクマネギとしてイメージした時、タマネギをタマネギとして見るのではなく、タマネギの皮に還元して見ることの必要性である。

私たちは、玉状の塊りこそがタマネギだと思い込んでいる。しかし、日常の食生活においては、タマネギを構成する皮そしてその集まりこそが私たちにとってのタマネギなのではないだろうか。そうであるならば、私たちは安易に「いじめ」などと呼ばずに、「それは人権侵害なのだ」「それは法から外れた非行なのだ」「それは友だちとの人間関係に憎しみを持ち込んだ恥ずべき行いだ」「それは(他者の心への)暴力だ」と一つ一つの構成部分に帰って語るべきなのだ。つまり、ある行為群を「いじめ」と「読み替えた」のを、再度、元の行為群に「読み変え直す」のである。

子どもたちの荒れた心、子どもたちの間の人間関係の不全、尊重されない基本的人権、意識されない非行行為、弱者への容赦のない仕打ち。こうした状況の噴出を「いじめ」とこれまでのように一くくりに表現し続ける限り、いじめ問題は真に解決しないと思われる。

(3)問いかけの転換

しかしそれにしても、いじめは本当に根絶できるのだろうか。

今、いじめは根絶できない、などというと、大きな問題発言とみられるだろう。しかし、冷静に考えると、根絶しようという発想の裏側には、子どもや人間性に対する認識の浅さが窺い見えるような気がしてならない。あるいは問題解決のすり替えがなされている、あるいはいじめ世界の理解の浅さが現われ出ているという思いもする。もちろん、「人間だけの特色は、彼が殺し、苦しめる衝動に動かされ、またそうすることに渇望を感じるところにある」というほどの大胆な表現をするつもりはない。しかし、次のような醒めた子どもの声に接する時、いじめにかかわる子どもという人間存在についての根源的な問い直しを進める必要を感じてならない。

正直言って、いじめは大人の人がなくなると言ってるほど、なくならないと思います。みんなそう思ってるんじゃないっすか。だけど、誰も言わない。だって言うと、まずいもの。(中略)

なぜなくならないかって-と、だって人間って動物だからですよ。わかってんじゃん。=…・ボクー?

いじめたこともあるし、いじめられたこともある。

(一九九七年七月 中学二年生男子 東京N区の学習塾にて)

こうした子どもの発言は、いじめを含めたさまざまな子どもの悪について、「反抗に限らず、悪という爪は自立へのひとつの契機として生じることがある」あるいは「創造性は、想像によって支えられている。

・・・想像のなかには、悪とかかわってくることがある。・・・性に関するもの、お金を盗むこと、暴力をふるったりすること、怠けること、などなど」という大人からの表現にささやかな賛意を表すことを迫るものである。

生まれた時から人権感覚を身につけ、母親の乳房を一人占めにしようともせず、他者の痛みが感じとれ、他の子どもが持っているものを欲しがりもせず、他の子どもより少しでも良く見せようともせず、他の子どもよりもすぐれた存在になろうとも思わない、嫉みも恨みもしない。そのような子どもが果して存在するだろうか。

そうでないからこそ、私たちは、子どものために早期からの学校制度を用意し、非行を働いた子どもには立ち直りのための教育的特別メニュ去準備して来たのではないだろうか。        しかしその一方で、だからこそ私たちは時として、子どもたちの中に現状を突き破るエネルギーと未来創造の芽を窺い見るのではないだろうか。

想像して告ほしい。もし、子どもたちから「いじめ心」を完全に払拭し、子どもの世界からいじめっ子が全くいなくなったとしたら、そこには創造性や人間くささ=個性の欠如した、みんな同じ顔つきの「子どももどき」たちが白々と並んでいるだけなのではないだろうか。

子どもはいじめを働く存在である。子どもだからこそ、いじめを働くと私たちは見直さねばならない。子どもが、そして人間が生存し続ける限り、いじめは根絶できないし、根絶するなどと表現してはならない、と覚悟すべきだ。

であるならば、私たちは子どもといじめの関わりを根本的にとらえ直す必要がある。

子どもが、なぜいじめを働いたのか、ではなく、むしろ、なぜいじめを働かなかったのか、あるいは今なぜいじめを働いていないのか、を考えてみる必要があるだろう。

(4)悪説的子ども観からの発想

なぜ子どもがいじめを働いたのか、という質問の背後には、子どもはあくまでも善良な存在で、もともといじめなど働くはずがないが、たまたま何か子どもを悪くする原因があっていじめっ子が生み出されてしまった、という想いがある。これに対し、なぜいじめを働かなかったのか、という後者の質問の背後には、子どもはもともといじめを働いても不思議でない存在だが、ともかく何かの作用でいじめを働かずにすんでいる、という考えがある。前者の性善説的立場に対し、後者は性悪説的立場だ。

この性善、性悪、どちらの説を選択するかは、人間をどう見るかというまなざしの差異による。現在、大多数の大人の視線は、前者の立場を肯定していると言ってよかろう。しかし、この多数老の性善説的子ども観には、大きな問題点がある。

性善説的立場は、どうしても悪玉(原因)を追い求めることになる。場合によっては、その悪玉と判定されたいじめっ子は「全く悪い子」と断罪され、その人間的存在まで強く否定されることになる。「いじめの根絶を願うならは、いじめる人間がいなくなれば、いじめはなくなると考えるべきなのである」ということだ。この発想には、いじめる子どもを追放し続ければ、最終的にはただ一人を除く(いじめ対象もいなくなった、ひとりぼっちの私)、すべての子どもを追放しなければならないだろう、という思慮はない。あるのは、いじめは子ども世界から全く消滅させることができるものだ、という根拠のない楽天主義である。

一方でまた、こうした性善説的な発想からは、「うちの子は、もともといじめっ子じゃない(性善)」けれど、「いじめられたと言ってるお宅の息子さんが、いつもノロマで皆に迷惑をかけてるから、うちの子もキレて殴ったんだ。ノロマなあんたの息子が悪い」といじめられっ子に責任を転嫁する口実(責任中和の論理)が生み出され、いじめられっ子に対する非寛容性が生じかねない。いじめの原因はいじめられっ子にある、というわけだ。

どちらにしても、こうした性善説的な視線は子どもに対する多分に非寛容な態度を生みだしがちであり、さらにいえば、社会の総力をあげて新たないじめをいじめっ子やいじめられっ子の上に及ばして行くことにつながりかねない。

大切なことは、いじめを働いてはいけないということと、子どもに対して寛容であらねばならない、という両論が並立するような思考を組み立てることだ。そのためには、子どもというものはもともとそういうワルサを働く可能性を多分に持った存在である(だからいじめを全否定してもどうにもならない)、しかし、そうしたワルサも働きかけによっては生じさせなくてすむものだ、という考えを採用することが必要だろう。

このいわば性悪説的子ども観から、いじめ世界をイメージすると、開けてはならないバンドラの箱が開くのを押し止める力が何らかの理由で弱まってしまった、あるいは十分に形成されていなかった。その結果、パンドラの箱が開いてしまって、出てきたのがいじめだということになる。

ここでは、子どもたちのいじめ心を抑制していた何がそのカを失ったのか、あるいは何のカが十分に培われていなかったのかが厳しく問われる。また、ふだんから子どもにどのように接してきたかも厳しく問われる。パンドラの箱が開き、いじめが起こってから、誰がまたは何がその箱を開いたかと原因を探しても遅いのである。

責められるべきは子どもではなく、本来そうした可能性をもっている子どもを無造作にいじめに走らせてしまった家庭や学校そして地域社会等の「子どもとのつながり(社会的抑制力)」の脆弱さであり、子どもたちに十分な自己抑制力(自己選択、自己決定、自己責任への想像力)を身につけさせることのできなかった教育環境の貧困さである。

子どもを非寛容的に統制するのではなく、いじめ行為そのものを問題視し、それに対応しなければならない。ここまでは許せるといういじめと、絶対に許されないいじめとの厳しい仕分け、すなわち的確ないじめ診断作業を進めることが大切だろう。現実のいじめ状況への対応は、その仕分け=診断がうまく行かず、そこに生じる大人の側の不手際を隠す「犠牲の山羊」として、「いじめっ子」とラベルを貼られた子どもを「道徳的市民」といういじめウォッチャーの前に提供しているのではないか。子どもという「人間」を見つめる私たちの視線の浅さが、今日のいじめ問題をより深刻化させているとも言えよう。反省すべきは私たち大人自身なのだ。

二 現代いじめ世界の三層構造

(1)現代いじめの諸特徴

いじめに投げかける私たちの基本視線のありようについて述べてきた。しかし、いじめは子どもにとって差し迫った日常の現実問題である。大人の視線がどうかにかかわりなく、子どもにとっては今日の前のいじめをどう読み解き、その軛からどう解き放ってくれるかこそが重要なのだ。

自殺

非行

1 広がりと深さからみたいじめ世界の三層構造
(狭)←広がり→(広)
遊び、いたずら

からかい・イジワル

仲間外し

プロレスごっこ

ケンカ

表層
中層
深層
(時間)(年齢)(原因)(加害)(被害)
一時性低年齢 単純性  個人性 心理性

瞬間性

長期性 高年齢 複雑 集団性 身体

醸成性

多関係が入り乱れ、加害者が被害老化し被害者が加害者化するという地位の可逆性)、いじめの産出種多様そして大量ないじめが子ども世界に広がっている。蔓延する現代いじめ。現代のいじめは、いじめの輪郭が曖昧だ(何がいじめかわからないという非規則性、このいじめはすぐに別種ないじめになっているという変異性)、いじめを囲む子どもの関係が曖昧だ(加害-被害-観衆-傍観者等の母体と産出過程が曖昧だ(何がどういった経路でいじめを生み出したかわからないという原因の不透明性、だから誰がどうやっていじめを

止めたらよいかわからないという有責性の拡散)といった特徴を持つ。

また、実際に子どもたちの人間関係の中で行われているいじめの状況を眺めてみると、具体的には年上-同年-年下に限らず、わずかな傷の故にいじめられっ子とラベルを張られた、自分より弱いとわかっている相手に、個人または集団で、心だけでなく時として体に対しても、かわいそうだとも思わず、むしろ苦しむのを楽しみながら、いたぶり襲いかかることが特徴である。相手は弱い、相手は苦しむだろう、とわかっていて楽しみながらいじめる。現代いじめの残酷さの基本はここにある。そして、この残酷さの上に、先に述ベた地位の可逆性(誰でもいじめられっ子いじめっ子になり得る、といった恐ろしい状況)など現代いじめの曖昧さの論理がからまり、独特ないじめの世界が作り出されている。

それは私が中一の時、A君という男の子がいて、その子はごく普通の子でした。でも、外見を見るとなんとなく「きたない」というイメージがあったんでしょうか。

そしてある日、何人かの男子がその子を囲んでいじめていたというのか、からかっていました。その現場を見ていた人たちも笑っていました。けれどA君はすごく悲しそうな顔をしていて、私たちに助けを求めているようにこっちを見ていました。。そんな苦しい思いをしているA君に私は、何もしてあげられませんでした。

本当にいじめはこわいです。

(前掲学習塾の作文より 中学二年生女子 KHさん)

(2)広がりと深さからの接近

子どもたちに怖いと評される現代いじめに正面から向きあい、有効な取り組みを進めるためには、まずそのいじめ世界を根本から診断し直す必要がある。

先に述べたように「曖昧なこと」が、現代いじめの特徴である。しかし、この曖昧な世界を整理していくと、子どもたちの現代いじめの世界に、広がり(広い・狭い)と深さ(深い・浅い)の二つの軸があることに気づく(図1)。

いじめ世界の広がりとは、子どもたちの問におけるいじめの(発生)量を示すと同時に、いじめ行為の形態の多少を表わす。さまざまないじめが多くあるか少ないかだ。これに対し、深さとはいじめの質であり、問題解決の困難さと考えられる。

現実には、この量と質を示す広がりと探さは交差し、①さまざまないじめが量的には多く認められるが、質的にはさほど問題がなく、解決も容易な「表層レベルでのいじめ問題群」、②量的にはやや少なくなるが、質的には問題性が進み、解決により大きな努力と勇気を要する「中層レベルでのいじめ問題群」、⑨量的には少ないが、問題性が極めて進み、最も解決困難な「深層レベルでのいじめ問題群」の逆三角形をした三層を形成する。

たとえば、表層レベルのいじめには、図1に示したほかに、ひやかし、つげ口などがあげられる。中層レベルではこづく、つねるなどの小暴力、持ち物隠しなど、そして深層レベルでは金品や非行行為への参加の強要(脅迫、恐喝)、ふざけを装ったリンチ(暴行や傷害)などがあげられる。そして、表層から中層、中層から深層レベルに移るに伴い、前のレベルのいじめが上に乗って、いじめの多様化が進行する。また、表層レベルのいじめは、およそ男女にかかわらず、いじめの期間(時間)は一時的あるいは瞬間的、子どもの年齢は低年齢、原因は単純、加害-被害行為は個人間で行われる、という特徴を持つ。一方、対極の深層レベルのいじめは、長期にわたる時間をかけて醸成され、子どもの年齢は中から高年齢化し、原因は複雑、加害-被害行為は集団で行われるようになる。中層レベルのいじめは、表層と深層レベルの中間で、両方の特徴が入り交じる。

子どもたちのいじめ行為はさまざまだ。しかし、このように子どもたちのいじめ世界を層化してみると、現代いじめの取り組みへのより精緻で確かな方針を得ることができる。

「いじめっ子も、いじめられっ子も、集団の力学によってのみ存在しうる」という集団いじめもあれば、そうでない個人問のいじめもある。行きずりになされる一瞬のからかい的いじめも、冷笑に裏打ちされた根の深い差別的いじめもある。現代のいじめは複雑で、「いじめ」と一言でくくれない。このくくれないこと、層化して見ざるを得ないことを意識しているか否かが、実は現実的ないじめ対策を検討するのに最も重要なことである。

小六のとき私の友だちがいじめられました。……私はいじめられていた子とすごく仲良しだったから、私もいじめられました。(中略)

今、私と私をいじめた子は同じ中学校です。:…・私をいじめた子は中学校で逆にいじめられています。

私はいじめられる側から、いじめをみている側になりました。かわいそうと思うけど、私は小六のとき

あの子にいじめられたんだぁって思うと助けたいとも思いません。

(前掲学習塾の作文より 中学二年生女子 STさん)

(3)いじめの層間移動

こうした現代いじめの三層構造を通して見ると、今まで隠れていた幾つかのことが浮かび上がる。いじめの様式について見てみよう。

一般に、いじめの様式は、大きく次の三種に分類される0①言語的いじめ、②心理的精神飽いじめ、③身体的いじめ、あるいはモノを媒介にしてのいじめ(以下、「身体的いじめ」との表わす)。この三つのいじめの様式は、先の層化されたいじめと強く結びつき、複雑な現代いじめの世界を構築して行く。

今日子どもたちの間でなされるいじめ状況を観察すると、現代いじめの世界には、①軽くはやし立てるだけといった言語的いじめあるいはその場限りのイジワル(言葉を使う場合もそうでない場合もある)といった心理的精神的いじめがばらばらになされる単純な段階、

(表層レベルのいじめと結合)、②この言語的いじめと、心理的精神的いじめが複合しから毒ってなされる無視(人間関係から言葉を消去することで言葉を使用する)やハブ(仲間外し)、あるいは物腎や偶発的に軽く叩くなどの身体的いじめが加わりやや複雑化した段階(中層レベルのいじめと結合)、③言語的いじめと心理的精神的いじめにさらにターゲットを定めて意図的しかし遊び的フリをして殴る、蹴飛ばすといった身体的いじめが上乗りしてなされるきわめて複雑で危険な段階(探層レベルのいじめと結合)、といった状況が存在している。

問題は、果たしてこの三層の間を子どもたちはどの程度行き来しているかである。今日のいじめ大部分は、表層レベルで発生していると言ってよい。低年齢から個と個の間で偶発的に生じるいじめで、いじめが人間の本性に根ざすことの証しのようないじめだ。この表層レベルのいじめは、十分な抑止対策が周囲や本人の努力でなされると比較的容易に止めることができる。しかし、その努力が不十分あるいは不適切な場合、やがて中層レベルへと深化して行く。中層レベルのいじめは、個と個の間のいじめもあるだろうし、集団で

なされる場合もあり、原因も複雑化する。ちょっとした身体やモノに関わるいじめも生じて来る。多くの親や教師は、このレベルにいたって悩む。いじめが目に見え始めるからだ。救われることは、この中層レベルのいじめは、周囲や本人の強い努力で、場合によって時間は必要かもしれないが確実にいじめを止めることができる、ということである。

一人で行くと二十人近くの人が待っていました。言っていないことを言ったとか、したとか、色々もんくを言われあげくには、「土下座しろ」「死ね」などと言われました。私はその時、納得がいかなかったので自分なりに言い返し、悲しいというより怒りの方が強く、自分からその場を立ち去りました。翌日も場所を変えて二度ほどありました。結局この件は、向こうから謝ってくるという私には全く理解できない結末を迎えました。

(前掲学習塾の作文より 中学二年生女子 ATさん)

ただ、現実になされている子どもたちのいじめを観察すると、表層レベルでのいじめは中層レベルにまで深化することはあっても、さらに深層レベルにまでは多くの場合いたらない。逆にいえば、深層レベルにまでいたるいじめは、多くの場合いじめの動機や様式、いじめっ子-いじめられっ子の人的構成、彼らの出身家庭の状況や学校生活等に表層・中層レベルのいじめの場合と大きな差異が存在し、両者の間には質的な連続性が認められないということである。深層レベルのいじめは、いじめる方に非行性を帯びた老が多く、そうした少年が集まって群れを作り、その群れの中の力の弱い少年や集団外のわずかな傷を持つ少年に対し、ボス的なカや知恵のある少年が中心となって、巧妙かつ執拗に悪ふざけを仕掛ける、あるいは集団から逃れられないよう暴力をふるう、といういじめである。このいじめの残酷な点は、言葉や心さらには身体にまで巧妙かつ執拗にいじめが及ぶ、という点である。もちろん、表層や中層レベルのいじめから、一挙に深層レベルのいじめにまで深化する状況も稀にはありうる。その場合は、そのいじめに関わったいじめっ子やいじめられっ子の家庭や学校等での生活に、まず大きな変化が生じている。深層レベルのいじめは、深層レベルのいじめに関わっても不思議でない子どもの状況が先行して生み出されていることが多い。

[いじめ事件事例]

事件概要平成二年。東京都SS中学校三年の男子少年ABは、中学校に入学した二学期頃から突っ張り、校内を徘徊するようになった。

ABらは、小学校が同じであった甲、乙、丙、↑等の少年を遊びグループに引き入れ、子分として一年二学期から二年三学期までの問、(1)使い走り(ジュース、タバコ等の買い出し)、(2)金集め、(3)遊びの強要等をくり返し、生意気な態度、遊び等をことわった場合、学校の廊下や屋上等で殴る、蹴るの暴行をくり返していた。耐え切れなくなった甲が警察に通報し、警察は、ABを暴行、傷害、恐喝事件として書類送致すると同時に、   この事件をいじめ事件として認定した0なお、主犯格のA少年には、過去に深夜徘徊で補導された経歴が二回あった。

加害者Aの意見

人間は、いじめたり、いじめられたりして強くなるから、いじめは少しくらいあった方

がよい。弱いものいじめがいつも悪いとはかぎらない。自分は、のろまでトンマな子を見ると、「一緒 にからかってみるか」と思う。

加害者Aの親の意見

自分の子どもは、いじめっ子タイプではないと思う。いじめられっ子にも責任があ

る。こんどのことは知らなかった。

(4)痛みと処方

小指の先のほんの小さな傷も、全身の痛みとなる。表層であろうと中層、深層であろうと、いじめは子どもの心身に大きな苦しみを生む。

やっている人には、ぜったいにわからないんだと思います。いじめられた人でなければ、この苦しみがわからないと思います。

(前掲学習塾の作文より中学二年生男子HM君)

友だちの言がトゲとなって登校拒否を生み出す。周囲の視線が自虐的な頭髪むしりとなる。理由もなく殴られ続ける人生に早く別れを告げようと自殺した子どももいる。触れ合うことを避け、視線を伏せた暗い子ども時代の思い出に、今でも苦しむ大人がいる。

性悪説的子ども観に立つと、いじめは起きるものなのだ0それでも、切実に起こしてはならないと思う。

いじめを止める手法は、基本的には①阻止、②威嚇、⑨遮断、④隔離、⑤回避、⑥強化、⑦矯正の七種がある(図2)。

① 阻止 ② 威嚇 ③ 遮断 ④ 隔離
⑤ 回避 ⑥ 強化 ⑦ 強制 凡例

(いじめっ子)

(いじめられっ子)

2 いじめ問題克服手法の基本形

これらの手法を現代いじめ世界の三層のそれぞれの状況に合わせて、使い分けることが必要だろう。しかし、ここで注意しなければならないこと、あるいは常に頭に入れておかねばならないことがある。現在のいじめ対策の多くは、いじめで「子どもを死なせない」

ことが大目標となっている。いじめによって子どもが自殺したり、非行に走ることは、本当に悲しい。しかし、ここで冷静にならねばならない。こうした事態が発生するのは、そのほとんどが深層レベルでのいじめの場合である。深層レベルのいじめは、量的にはごく

少ない。年間発生するいじめ全体の01パーセントにすぎないという数字もある。その深層レベルのいじめを防止するための対策を、他のすべての、つまり量的には圧倒的に多い表層や中層レベルのいじめにまで適用することにはきわめて慎重でなければならない

と考える。慎重であることを強調したいわけは、一般的に見て二つの考え違いがあると思われるからである。

一つは、量の多さが問題の深刻さを現わしている、という思い込みの間違い。もう一つは、いじめにはともかく強い薬を注入して根絶する、という薬理作用に関する思い違い。

量と質は違うのである0良く効く薬は、完で激烈な反作用を生み出しかねない毒でもある。深層レベルのいじめは、絶対に許してはならないから、強い態度で阻止する、あるいはいじめっ子を隔離し、他の子どもから遮断するくらいのことは場合によっては必要なのかもしれない。しかし、表層から中層レベルのいじめに対しては、より教育的な配慮から、いじめっ子に対しては矯正、いじめられっ子に対しては強化を進めることも大切だろう。このレベルのいじめに対しては、いじめっ子やいじめられっ子の生活環境や基礎的生活習慣を整えてやること、さらに大切なことは、そのいじめの体験を通して人権の尊さを学ぶ貴重な教育の場とすることに重点を置くべきである。表層や中層レベルのいじめに、深層レベルの強い統制手法を延ばした場合、多くの子どもたち、また子どもだけでなく家庭や学校にまで強いストレスの芽を植えつけることになり、より問題的な行動へといじめを変異させてしまう危険性がある。また、子どもたちや親、そして教師の間に「いじめ」という言葉狩りや言葉の「読み変え」、あるいは実質的な「いじめ隠し」を生じさせることにつながりかねない。

要するに、現代いじめの世界を構造的に把握し、その構造(たとえば、表層、中層、深層)に沿った的確ないじめ診断を実施し、その診断に沿った限りなく個別に近い対応を展開することが大切なのだ。「いじめ」と言でくくって処理できるほど、現代いじめは単純ではない0くり返し述べてきたように、いじめは子どもが子どもである限り、消し去ることのできない行為である0いじめという問題は、人間として生き続ける

限り、私たちが向い合い戦い続けねはならないものだ、と覚悟しなければならない。

三 モノサシの再構成

最後に稿の最初に戻る。「いじめ」という便利な言葉にこだわっておかねはならない。

現在の状況では、子ども間の殆どの対人的な問題行動に対して「いじめ」というラベルを一律に貼ることが可能となっている。しかし、それによって実質的には極めて悪質な暴行・傷害並みの行動でも「いじめ」として曖昧化され、容易に実行されようとしている。また、親や教師も極めて深刻な子ど∂の問題を「いじめ」と認定することで、つまり「読み変え」ることで自分たちの責任を軽くし、問題を7子ども集団の歪み」といった曖昧な状況表現に転換させている。

こうした現代「いじめ現象」の背景には、三つの問題が控えている。

①どのような行為をどの程度の問題行動と判定するかについての大人(親、教師等)の規曹準の混乱。大人は、どこまでがいじめで、どこまでが非行かがわからない。

②この規範基準の混乱を受けての、子どもに対する妥当な賞罰基準(サンクショソ)の混成。大人は、どこまで、どのように叱ってよいのかがわからない。

⑨さらにいえば、こうした規範基準や賞罰基準の当てはめ対象である子どもの心身の発達基準の混乱。大人には、今の子どもがわからない。

こうした三つの「わからない」(いじめ現象の混乱化や曖昧化)要因を冷静に眺めてみると、今日のいじめ問題の根本には、子どもではなく、私たち大人側の混乱が、実は強く作用していることに気付く。大人、つまり世の中全体が、お互いに人間として生きて行く上に必要とされる、人間の心や人間の「間」を計るモノサシが混乱しているのだ。モノサシは、英語で「norm(ノーム)」、日本語で「規範」と表現される。現代いじめの問題は、私たち自身の規範の混乱であり、私たち自身が長い時間をかけて作り上げてきた「人間関係

を曖昧で揺らぐがままにしておきたい無責任さ」の隠喩的な子ども問題現象にほかならない。曖昧で便利な言葉「いじめ」は大人自身が求めているものである。

子どもたちの間での現代いじめの根源的回復策。それは、子どもたちに何かを求めるより先に、私たちの問に、注意深くではあるが、もう一度、人と人とが信頼しあって共生する上で必要な確かなモノサシの再確認、あるいはこれまでの「(和=平準)を強いる日本的規範」を越えた新たなモノサシを形成するしかない、という結論に向かって行く。

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