<私たちは犯罪学における言葉の検討を進めねばならないのではないか>②―2
「犯罪原因論」と「犯罪機会論」を考える~言葉の定義の不明確さ~
l 原因
あくまでも「犯罪防止のための」という前提を置いての「原因論」と「機会論」であろう。しかし論者の生まれながらの頭の切れの悪さがもたらすものであろうが、これまで説かれてきた「原因」の意味がどうにも分からない。
分からないの背後に2つの「分からない」がある。
①示されている定義を読む限り、「原因」とは「犯罪者が犯行に及んだ原因」であるという。しかし見方によっては、それでは「機会」も原因の亜種ではないのか。
機会が「あった」から犯罪者は犯罪に走るのではないか。つまり犯行の背後に「機会」がその犯行を産み出す原因の1つとして作用したのではないか。
そうではない、と否定するなら「原因」をどう正確に定義するのか指し示してもらいたい。
②仮に従来の犯罪学で説かれてきたような、犯罪者個人の「素質的」あるいは「生理遺伝子レベル」の個体的犯罪促進要因のことであるとするならば、
「英米では1980年代に、犯罪の原因を究明することは困難であり、仮に原因を解明できても、それを除去することは一層困難であることが認識されるようになり、“犯罪原因論”は大きく後退していった」
ような傾向は、絶対に無かったことを指摘せねばならない。
英国のOxfordやCambridge UnivあるいはThe Air Univ から出版されている犯罪学関連の多くの教科書群がこのことを物語っている。
ただ論者が1998年、アメリカでGottfredson と対談したとき、彼は次のように述べて最近の学者の無力さを語っているのは事実だ。
「近年、特にここ10年、犯罪学者の説く犯罪防止論が、あまりもてはやされなくなった。それは学者はあくまでも「犯罪の原因を追及し、それを叩くことで犯罪防止を叶えようとする限界」から来ている。原因を分かることと犯罪を防止することは別だ。
これに取って代わったのが、行政実務家で、彼らはともかく直接膨大な予算を掛けて、犯罪者が被害者に襲いかかる「機会」を何としてでも取りあげ、被害者化を防止しようとする。実際、この方式の方が遙かに効率よく犯罪防止を可能にしている。
犯罪防止では学者より行政家の方が今や重んじられている」(放送大学取材資材 1998)
このGottfredsonの言にしても、犯罪研究の世界全体からの「原因論」の退行を表現しているのでなく、あくまでも「現実の犯罪防止の実現」において、「(犯罪学者の説く)原因論は無力だ」ということを述べているに過ぎない。犯罪の原因を究明することの困難さが犯罪原因論の衰退をもたらしたのではない。
l 機会
欧米の研究においても「機会」あるいは「犯罪機会論」という言葉を目にする機会が多くなった。しかしその「機会」とは何か、と問われると言葉の鮮明さを失って行く。
ある場合は内的な自己抑制を外すタイミング、ある場合は外部がもたらす「つけいる隙間」という表現という表現で表される。しかし、さらにもう一歩踏み込んで、それではより具体的に「タイミングや隙間」とは何か、「犯罪者はこれらをどう判断して、どう掴み取るのか」などの質問に対しては、明確な答えは得られなくなる。
確かに実際の犯罪者と接触してみると、同じ犯罪者でも確かに「そこに犯行を実行するのに、良い機会」があったからそこで犯行に及び、そうでなければ実行しない。犯罪が生じるには「機会」は必要不可欠な条件である。
そういう意味では「機会」という言葉は「犯罪」の代理代名詞とも云える。要するに「機会」は「犯罪」という言葉を言い換えているに過ぎない。
「機会」といっている限り、何も前に進まないのだ。
<私たちは犯罪学における言葉の検討を進めねばならないのではないか>②―1
「犯罪原因論」と「犯罪機械論」を考える~問題提起~
最初に「犯罪原因論」と「犯罪機会論」から論じねばならない。あまりに一般の人々への現実的影響が大きすぎるからである。
前もって断っておきたい。稿者(清永賢二)には、こうした立場を主導する人々には何の悪感情を抱いているものではないことを断っておきたい。むしろ「犯罪予防の理論」を広めた努力に尊敬の念さえ抱いている。
しかしあまりに訂正しなければならない箇所が多い、あるいは論理の進め具合の角度が歪んで行くのに改めて気がつき稿を起こすことにした。おそらく多くの人は、特に犯罪社会学や犯罪心理学さらには犯罪学を学ぶ者は既知のことであろうが、犯罪予防論あるいは犯罪行動生態学を学ぶ浅学の者から一考を提示しておきたいと思う。
犯罪防止の観点から「犯罪原因論」と「犯罪機会論」を並立的に捉えようとする考えがある。最初にこうした立場からなされた説明を概略見てみよう。
2つの理論を説明して次のようなことが云われている。
「犯罪原因論」とは、犯罪者が犯行に及んだ原因を究明し、それを除去することによって犯罪を防止しようという考え方である。一方、「犯罪機会論」は、犯罪行動へと走る機会を与えないことによって、犯罪を未然に防止しようとする考え方である。
この2つの理論の背景には、「英米では1980年代に、犯罪の原因を究明することは困難であり、仮に原因を解明できても、それを除去することは一層困難であることが認識されるようになり、“犯罪原因論”は大きく後退していった」のであり、その代わりに「犯罪の機会を与えないことによって、犯罪を未然に防止しようとする考え方」の台頭発展があったという(注1。そして「もちろん、『犯罪原因論』に基づく犯罪対策のすべてが無効であるというわけではない。犯罪対策にとって、原因論と機会論は車の両輪である。しかし、日本の犯罪対策は、『犯罪原因論』の視点から語られることがあまりにも多すぎる」という。
この考えに従い「犯罪原因論」と「犯罪機会論」は並立する考えであるが、「犯罪機会論」を論じるのがあまりに少なく、今回改めて「犯罪機会論」を提示するという論理展開がなされる。
こうした考えに幾つかの問題を掲げたい。
1.「原因」「機会」という概念をもう少し具体的説明的に論じずに進めて良いのか
2.「犯罪原因論と「犯罪機会論」という2分法で良いか
3.因果論的に見て「犯罪原因論」と「犯罪機会論」を並立的あるいは両輪的に並べて良いか
4.経済学、特にミクロ経済学の「限定合理主義」と「機会主義」の論理を窺わせる考え方を持って来てアナロジカルに論じて良いか
5.「犯罪機会論」を進めてゆくと「安全マップ作成」に辿り着くというが本当か
多くの問題意識がある。しかし体調の絶対的不調が迫っている。どこまで書けるか判らない。途中で断筆した時は「犯罪機会論」を唱える人々を含め、多くの方にお詫びを申し上げる意外にない。同時に、今書いておかねば大きな悔いを残すものと思い書けるところまで書き続ける所存である。
注1) 2005年9月 yahooHP原稿
舘研究員と清永教授が翻訳いたしました。続きは後日掲載いたします。
A General Theory of Crime -The Undeveloped concept of opportunity-
M.Gottfredson & T.HirschStanford
University Press Stanford CA1990
犯罪の発生を説明する一般理論に「犯罪行為は自制心の低さによって引き起こされる」と説明するGottfredsonとHirschの自己統制理論(Self control theory)がある(1)。
この理論によると、自制心のレベルが低い人、全てが罪をおこさなくてはならないわけだが、現実はそうではない。自制心が低くても、犯罪に手を染める人と染めない人とがいる。この違いを説明する要素として、機会という概念の導入を試みられている。
これにより、「自制心レベルが特定レベル以下であり、なおかつ特定の『機会』に直面した者が犯罪行為に手を染める」と説明できる。つまり、自制心レベルだけでは説明付けられなかったところをカバーすることに成功した(2)。
しかし、現在の自己統制理論に導入された機会論には、機会が担う役割等々についてはまだ未発達(Undevelopment)で明確にはされてはいないという状況にある。
なぜ、機会に関する研究が遅れているのか。
その理由にあげられるのは、犯罪を誘発する機会は時と場合により実に様々であり、その統制は不可能に近いことがあげられる。また、機会自体は現実的に犯罪抑制効果を持たないのではないかと指摘する意見による影響で、研究者のこの分野に対する研究意欲が阻害され、研究の進行を遅らせていることもあげられる。さらには、機会の構成要素が犯罪の種目により様々であり、特定困難であることも、研究を遅らせている理由のひとつとなっているという。(3)
とはいえ、犯罪理論として最も有力視されている自己統制理論を完全なものとするためには、機会を補助的因子として組み込むことが最適と考えられる。
また、自己統制理論の説明能力と実践力(現実的な応用力)を高めるためには、機会の基本的性質やメカニズムについて明らかにすることが必要である。機会に関する研究の今後の発展が非常に期待される。
(1)元々、この Self Control
理論事態は以前からあったものだが、「犯罪防止」という視点からスポットを当て始めたわけである。GottfredsonとHirschに言及しておくと、両者はアメリカ犯罪学における理論研究の頭領で、犯罪原因に関する卓越した研究で世界的な名声を得ている。10年近く前にGottfredsonと会話を交わしたことのある清永は、Gottfredsonが犯罪者化防止の視点から「Self
Contorol」の重要性を力説していたことを思い出す。
(2)面白いことに、Hirschi自身は、非行化・犯罪者化原因を説明する社会統制論(Social Control Theory)の主導者であった。この本の中で、GottfredsonとHirsch
は、socialの対極に位置するselfの犯罪や非行の統制力(防犯力)に注目し、「機会」という概念の効用と現時点での現実的限界を示したというわけだ。そして、ここでは、あくまでも「機会」というのは、犯罪が起こってくる1つの補助的要因なのだ、ということがいわれる。こういう文脈で、欧米では「機会」が使われていることに注意しなければならない。
(3)GottfredsonとHirschは「なぜ、人は犯罪を犯さないのか」(これがまた面白い表現で、通常の「人はなぜ、犯罪を犯すのか」といわないこところがユニークである)ということに着目しての用語「機会」の可能性について言及しており、また多くの研究者はそこうした文脈での「機会」の使用であり、なぜその場所で「犯罪が発生するか」という文脈での用語「機会」の使用ではない、ということに注目せねばならない。
学術振興会 慶応大学大学院社会学研究科訪問准研究員
(株)ステップ総合研究所客員研究員
館 瑞恵
日本女子大学市民安全学研究センター所長
清永賢二