事件現場に学ぶ
㈱ステップ総合研究所は、事件現場を訪れ、空間的、社会的、そして人間的特性を分析し、犯罪予防を研究しています。
その根源には、当研究所の特別顧問清永賢二客員教授の研究哲学「現場を見よ」があります。
このページでは、清永賢二特別顧問が中心として行った、「特定事件研究」(日本女子大学総合研究所紀要「犯罪からの子どもの危機実態に関する研究ー小学校を中心としてー」執筆者:清永賢二日本女子大学教授、田中賢日本福祉大学准教授:楊(清永)奈穂市民安全学研究センター研究員(肩書当時))をご紹介します。
「日本女子大学総合研究所紀要 「犯罪からの子どもの危機実態に関する研究―小学校を中心としてー」(2010年11月)より抜粋
4章 「特定事件」事例実査
幼い子どもの生命を奪う犯罪が絶えない。大阪、奈良、広島や栃木そして加古川。
殆どの事件は、犯罪精神医学の視点から評論的に語られ、異常者という「個」の問題で終わる。しかし、本当に重要なことは、二度とこうした哀しみに満ちた事件を生み出さないために、我々は事件から何を学び、いかにして子どもの空間を無限に安全安心にするかということである。
実際に、小学生が危機体験を持った(得てしまった)事件について、その複数の現場に赴き、その空間的社会的そして小学生という人間的特性を分析した。特に今回分析においては、広島県広島市及び栃木県日光市で生じた事件について、集中的に分析した。
2.事件現場Ⅱ 栃木・今市市小学1年生被害事件
(1)事件概要
2005年12月1日。栃木県今市市の郊外に位置する大沢町土沢地区で、下校途中の女子小学1年生が行方不明となった。翌2日、少女は約65㎞離れた隣県茨城県の山中で死体となって発見された。犯人は2006年2月5日現在も未検挙。
(2)通学路
ア、光の中へ
今市市は、かって日光東照宮と江戸を結ぶ日光街道の主要宿場町であった。町のはずれを日光杉並木が走り、現在も鬱蒼とした杉木立が林立している。
被害少女が通っていた大沢小学校は、市中心部からタクシーで約20分ほど走った日光街道から脇に入った約50m先にある。
大沢小学校から少女の住む住宅までは、小学校校門を出て、日光街道に背を向けて歩み、やがて、右に折れ直進し、やがて左折しさらに右折し直進する約1.5㎞ほどの通学路が結ぶ。通学路の幅は、平均して車2台が漸くすれ違えるほどである。
通学路の両側には、いまだにこのような田園が残存しているのか、と思わせる農村地帯が広がる。
少女は、事件遭遇当日の午後2時過ぎ、学校を出て右折し、田畑の間に散在する林中の暗い三叉路で友達と別れ、一人で林を抜けて明るい光の煌めく農道へと歩いていった。それが友達が見た最後の少女の姿であった。
この後の少女の歩みは、「おそらく」の推測である。
イ、切れた匂い
少女は、農道をどんどんと歩んでゆく。大沢町の中の土沢地区だ。
周囲には、僅かな数の農家が散在するのみで、殆ど人家はない。少女を見守る人の視線も、夕刻から夜間にかけてこの通学路を照らす街灯も殆ど無い。全く、昔ながらの農道である。昼間の歩みを進める少女からするならば、「全てが見えて」十分な不審者回避行動を自ら行なうことのできる農村的空間の広がりである。ただし、逃走するだけの安全基礎体力があればだが。
やがて、この農道の先に一軒のプレハブ工場が目に入ってくる。一軒ではあるが、このプレハブ工場は、この田園的農村風景の中に「外部から複数の人間が出入り」し始めていることを表わしている。即ち、田園の匿名化の進行である。
さらに進むと、やがてまた薄暗い林の中に入り、ガードレールで固められた道路の先へと足を運ぶ。林を抜けた先に、突然、大きな建築物が出現する。木造アパートである。ここでは、我々が思いこんでいた「汚れていない田園」が消失しかけている、あるいは、消失しつつあることが証明される。このアパートの向こうにさらに1軒の個人住宅。その間には、右奥の林へと入って行く道路。何処までが道路で、どこまでがアパートか個人住宅かの領域性が全く判然としない。
ウ、林の中へ
少女の通学路は、学校の定めでは右奥の林への道ではなく、まっすぐに歩んで行くことになっていた。しかし、少女は、しばしば、右奥の林へと登下校の足を運んだという。それは、少女の家への近道だったという理由による。ひょっとすると、少女は、この林の中へ連れ込まれたのかも知れない。
林の中へ足を運ぶ。林の入り口は、住宅地として造成される途中で作業がストップしていた。「こんなとこまで人は住み家を求めているのか」、という思いが強まる。
さらに林の中へ足を進める。
木々が芽吹く春、精一杯の緑を広げる夏、木の葉降る秋。それぞれの美しさがこの空間を特徴づけるであろう。しかし、少女が行方を消した冬の光景はあまりに淋しい。
正規な通学路ではなかったかも知れない。しかし、少女が(非正規な)通学路として一人で使用していたことは、周囲の大人、学校関係者も含め、知っていたはずだ。その危なさを大人は「本気で」少女に学ばせなかったのか。その「本気」の無さが、今回の事件にも間接に係わっていたと思えてならない。
多分、この林を見たものは、すぐに木を切れ、と言い出すだろう。しかし、そんな問題ではない。
さらに進む。前方に日光宇都宮道路を越えるための地下道が横たわる。怖い。
そして、地下道を超えたその先に少女の住んでいた住宅街が広がる。
エ、海原の中の孤島・新興住宅街
そこには戸数10個前後の戸建て住宅が集まり、未完の「街並み」を形成していた。古くからの住民も住まっているのかも知れない。しかし、一見したところ、今市市の中心部あるいは隣接する宇都宮市の市民が住戸を求めて、ここに俄に寄せ集まったという赴きが強い。この住宅街の住民相互の関係性も形成されていない。住戸の個々の領域性(自戸であることの主張)も不明確、どこからも住戸に接近可能(動線の不明確さ)、従って人を見つめる固定した監視的視線も拡散した状況にある。
その上に増して、この住宅街は、周囲から隔絶し、近隣関係も無い。何ごとかあっても、この住宅街の外の世界の住人、即ち、旧来の農村集落の人々は「他人事」として見つめることになる。
即ち、被害少女の住まったこの新興住宅街は、田園という海原の中の孤島であり、その孤島も新生直後で大地はひび割れた状態にあった、とみられる。
見方に寄れば、この新興住宅街は、まだ同質の住戸が集まっただけ良かった、といえるかも知れない。少女が通った小学校から自宅までの通学路の田畑や林の中には、たった1戸の住宅が、大きな農家の間に距離を置いて小さなバブルの様に点在していた。それは、一軒、のどかで古くからの田園的景観を残しているこの地域が、まさに、その地底深くから変質しつつあることを表わす光景であった。
被害少女は、毎日、こうした住宅街と学校の間を生真面目に往復していたのである。
(3)栃木・日光事件現場分析の終りに~崩壊する農村空間の秩序~
なぜ、この大沢町のこの土沢地区か。
かっての土沢地区は、これまでに述べたことによっても明らかな様に、個々の農家が個々の領域性(住戸の範囲)を厳守し、その中から外側を走る農道や田畑の向こうに視線を投げていた。少なくとも、自分の田畑が広がる空間に対しては、「自分のものは無闇に他人に侵させない」という根性に支えられた有責感が存在し、自然ではあるが厳しい視線が監視的に周囲に投げられていた。
当然こうした視線の下では、「知っている者=村の者」以外は不審者とまでは行かなくとも、よそ者として自然に監視的に何処までも注視された。匿名であることの気楽さは許されなかったのである。さらに、人々が通う道も定まった以外の空間を「道」として使用することは秩序違反であり、異常な行為に外ならなかった。村に入る道も限定されていた。自然な動線制御が成されていたわけである。
しかし、こうした農村的空間秩序が、これまでに述べてきたことに見るように崩壊した、あるいは、崩壊しつつあるのが現在の土沢地区である。
例えば、この空間では、アパートが散在するようになり人々の匿名化が進行し、車による地域内への入り込みも通過も容易になった。その結果生じてきたのが、ゴミの不法投棄であった。こうしたゴミの不法投棄は、不法投棄しても見つからず罰を被ることもなく、見つかってもどこからも逃げ去ることが出来るといった状況の進行の産物でもある。
即ち、最近の土沢地区では空間の無責任化と領域性の喪失が進み、かっての自然な監視性が有効性を持たなくなって来ているのである(図-4)。
その一方で、幼い少女が通う通学路の防犯性の強化は、既に失われた農村的自然観姿勢に任せ、「まさかこんな農村では」という思い込みだけで放置されていたのである。車を利用すれば、発見されることなく65㎞離れた地点にやすやすと誘拐した少女を運ぶことが出来る、ということまでにこの農村的風景を曖昧かつ中途半端に残した土沢地区では思いが及ばなかったのである。
問題はなぜこうした状況が、この土沢地区に生じたかである。指摘できるのは、ただ一点、「安全安心に人々が住み続ける」ことの重大性を考慮せず、虫食い的に現在も進められつつある宅地開発であり、その計画性の無さである。
より広い土地と家を求める人々の信仰的な思い、切り売り的に安易に土地を金銭に換えようという田畑所有の旧来の住民、これらを安易にかなえようとした住宅開発業者の思惑が、地域社会の全身衰弱的弱体化をもたらし、その隙が一瞬にして突かれ噴出したのが今市市大沢町土沢地区の大沢小学校1年生誘拐殺人事件であった、といえる。